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建築と文化財

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松山城本丸の全景写真

知っていたらお城めぐりがさらに楽しくなるようなポイントや、天守を含めて21もの重要文化財についてご紹介します。

難攻不落の松山城

日本で最後の
完全な城郭建築

松山城は、日本で最後の完全な城郭建築(桃山文化様式)として、層塔型天守の完成した構造形式を示しているといわれています。

城郭建築は桃山文化の象徴です。武家諸法度により新たな(天守の)築城や増改築が禁止されたため、江戸時代を通じて作事(建築)技術は衰えていったと考えられています。しかしながら、幕末に落成した松山城天守は見る方向によって意匠が異なる複雑かつ厳重な連の構成となっており、本壇の石垣部分の普請(土木)技術を含め完全な桃山文化様式の技法といえます。

江戸幕府の武家諸法度は、天守の新築はもとより増改築も厳しく取り締まっていたため、天災などで失った天守の再建を断念した城郭もありました。しかも、将軍家の居城であった江戸城や大坂城の天守も再建されることがなかったため、何とか再建の許しを得ても幕府に遠慮して「御三階櫓」と名乗ったりするご時世でした。

このような中、落雷で焼失した天守を幕末に松山城が再建できたのは不思議ともいえます。

本丸の重要文化財と復興建造物

本壇(本壇拡大図)内の重要文化財と復興建造物の配置図

重要文化財

  1. 天守
  2. 三ノ門南櫓
  3. 二ノ門南櫓
  4. 一ノ門南櫓
  5. 乾櫓
  6. 野原櫓
  7. 仕切門
  8. 三ノ門
  9. 二ノ門
  10. 一ノ門
  11. 紫竹門
  1. 隠門
  2. 隠門続櫓
  3. 戸無門
  4. 仕切門内塀
  5. 三ノ門東塀
  6. 筋鉄門東塀
  7. 二ノ門東塀
  8. 一ノ門東塀
  9. 紫竹門東塀
  10. 紫竹門西塀

復興建造物=登録有形文化財)

  1. 小天守
  2. 筒井門
  3. 太鼓櫓
  4. 天神櫓南塀
  5. 天神櫓西折曲塀
  6. 馬具櫓
  7. 南隅櫓
  8. 乾門西塀
  9. 天神櫓
  10. 筋鉄門
  11. 多聞櫓
  12. 北隅櫓
  13. 筒井門東続櫓
  14. 筒井門西続櫓
  15. 巽櫓
  1. 巽櫓西塀
  2. 乾門東続櫓東折曲塀
  3. 太鼓門
  4. 太鼓門南続櫓
  5. 太鼓門北続櫓
  6. 太鼓門西塀
  7. 乾門
  8. 乾門東続櫓
  9. 艮門
  10. 艮門東続櫓
  11. 井戸
  12. 十間廊下
  13. 玄関
  14. 玄関多聞櫓
  15. 内門

多数の櫓の理由

櫓とは、城壁や門の上、郭の隅など、城内の要所に設けた物見・防戦のための施設です。

松山城は本丸だけで22棟もの櫓があり、厳重な防御態勢をとっています。櫓の内の6棟が重要文化財に指定されています。

隅櫓(すみやぐら)
郭の隅に配置される櫓。方角を表す名前のものが多い。
多聞櫓(たもんやぐら)
石垣の上に長屋状に建てられた櫓。櫓の間をつなぐ「渡櫓」、櫓門から連続する「続櫓(つづきやぐら)」がある。
平櫓・二重櫓
それぞれ一重、二重の屋根を持つ櫓。屋根の重なりは内部の階層と必ずしも一致しないため、「二重二階櫓」などと呼ぶ。
左から北隅櫓・十間廊下・南隅櫓
乾櫓(重要文化財)
乾門・乾門東続櫓

門のタイプ

城郭の門は、場所や用途によりさまざまなタイプのものがあります。

松山城では戸無門、紫竹門等が高麗門です。また、薬医門は本壇の二ノ門のみ、櫓門は隠門(渡櫓型)のみ現存。

高麗門(こうらいもん)
2本の主柱の上に屋根を載せ、主柱の背後の控柱へも主柱の屋根と垂直に小さな屋根を載せたもの。
薬医門(やくいもん)
2本の主柱と控柱を建て、門全体を一つの屋根で覆った門。格式が高いとされる。
櫓門(やぐらもん)
最も防衛機能が高い門。上部に櫓を載せた楼門型と、石垣の間に渡した櫓の下部に門戸を開いた渡櫓型がある。
紫竹門(高麗門)
二ノ門(薬医門)
隠門(櫓門)

防御の仕掛け

城内には櫓や門のほかにも敵を迎え撃つためのさまざまな仕掛けがあります。

松山城の本丸には、狭間の向きが逆転する渡塀や、屏風折の石垣など、敵を多方向から攻撃する仕掛けが随所に見られます。本壇の枡形もその一つ。

狭間(さま)
外部の敵をうかがったり、射撃したりするための穴。長方形の矢狭間、正方形の鉄砲狭間がある。
石落(いしおと)
櫓や塀などに設けられた仕掛け。真下にいる敵を鉄砲などで攻撃するための備え。
屏風折(びょうぶおれ)
石垣をジグザグに屈曲させることにより、敵を2方向から攻撃することができる。
狭間
石落し
屏風折

石垣の積み方に注目

時代によって加工法や積み方が異なるため、石垣を見ればおよその時代を推測することができます。

松山城の石垣はほとんどのものが打込接(うちこみはぎ)で、一部、切込接(きりこみはぎ)が用いられています。

本壇東側の石垣は天守債権の際に一部を積み直したため、積み方の異なる石垣を見ることができます。

打込接
切込接

石の加工程度による分類

野面積(のづらづみ)
自然石を加工せずそのまま積み上げたもの。城郭建築に石垣が取り入れられ始めた頃の石積み方法。関ヶ原の戦い以前の城に多い。
打込接(うちこみはぎ)
石をある程度加工し表面を平らにし、石と石の隙間を減らして積み上げる石積み方法で、関ヶ原の戦い以降に多く、近世城郭で最も多用された。
切込接(きりこみはぎ)
石同士が密着するように石を加工して、隙間なく積み上げる最も進化した形。

外観による分類

算木積
算木積(さんきづみ)
石垣の出角部分(隅石)の積み方。慶長10年(1605年)前後に用いられて以降、城郭の石垣に見られる。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増している。

登り石垣について

登り石垣

「登り石垣」は、山腹から侵入しようとする敵を阻止する目的のため、ふもとの曲輪と山頂の本丸を山の斜面を登る2本の石垣で連結させたもので、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本遠征軍の倭城築城で採られた防備手法といわれています。松山城では「登り石垣」をふもとの二之丸と標高132mの本丸間の防備として用いたものと考えられています。南側の部分はほぼ完璧な形で残っていますが、残念ながら北側は一部分しか残っていません。古図には完全な形で描かれていることから、幕末以降に何らかの理由で取り壊されたものと思われます。

国内の現存12天守の城郭では、松山城のほか彦根城だけにその存在が確認されており、当時の東洋三国(日本・朝鮮半島・中国)の築城交流史をうかがえる重要な資料として評価されています。

城郭の「(くるわ)」とは?

郭とは、土塁や石垣で区画した城のかこいのこと。曲輪とも書きます。近世城郭では天守のある中心の郭を「本丸」、その外側の郭を「二之丸」、さらに外側の郭を「三之丸」と呼ぶようになりました。他に補佐的役割を持つ「出丸」等があります。

松山城の場合、山頂に本丸、麓に二之丸・三之丸を分散して配した珍しい設計。さらに出丸として北郭・東郭が配置されており、近世は侍屋敷として機能していました。

縄張の妙

縄張りとは、立地に合わせて構成を決め、郭・堀・石垣などを配置する城の設計のこと。

松山城の縄張は連郭式で、山頂の本丸と麓の二之丸の間にできた空間を南北一対の「登り石垣」で囲むなど、平山城ならではの見どころも多いです。

連郭式(れんかくしき)
本丸・二之丸・三之丸を直線的(屈曲する場合等有)に配置した縄張。奥行きがありますが、本丸脇や背後の守備が手薄にならない様な対策等が必要です。
(例:備中松山城〈岡山県〉・盛岡城〈岩手県〉)
輪郭式(りんかくしき)
本丸を中心に二之丸・三之丸が周囲を囲んでいく縄張。城郭の規模が大きくなります。
(例:松本城〈長野県〉・大阪城〈大阪府〉)
梯郭式(ていかくしき)
本丸を片隅に配置して2方向または3方向を二之丸・三之丸が取り囲む縄張。本丸背後に山河や絶壁等の天然の要害があることが多いです。
(例:岡山城〈岡山県〉・弘前城〈青森県〉)
渦郭式(かかくしき)
本丸を中心に二之丸・三之丸が渦巻き状に連なる特殊な縄張です。
(例:江戸城〈東京都〉・姫路城〈兵庫県〉)

迷路へと誘い込む 大手の城門

本壇と大手と搦手の図

城には大手と搦手(からめて)があります。大手とは城の正面・表側のことで、松山城では二之丸から伸びる黒門口登城道の終点に大手門跡があります。

本丸を構成する石垣の南端は最も高いところで17mあり、行く手を阻む石垣は迷路へと誘い込む装置でもあります。途中、中ノ門跡の先に天守が見えますが、実はその先は行き止まり。天守へ向かうには右回りに折り返すしかありません。石垣に沿って進むと戸無門、筒井門、太鼓門と3つの城門が待ち受けます。

嘉明は、築城にあたって重要な櫓や門を元の居城・正木城(伊予郡松前町)から移築したと伝えられています。本丸最大の門である筒井門もその一つで、本丸に通じる最後の関門、太鼓門・太鼓櫓・巽櫓と共に大手の守りを固めています。

ここでは、重要文化財に指定されている大手にある城門を抜粋して紹介します。

戸無門(となしもん)

重要文化財

大手入口に現存する高麗門。折り返し登城道の終点に位置します。

当初から門扉がないので戸無門と呼ばれ、鏡柱にも扉を取り付けた跡はありません。敵を筒井門へ誘い込むため、戦略的な意味合いで設置したとみられます。

隠門(かくれもん)

重要文化財

隠門は筒井門の石垣の陰に隠された埋門形式の櫓門で、敵の背後を急襲する構えとなっています。

脇戸を持たず扉の横板張りの中に潜戸を仕込むなど規模は小さいが豪放な構えで、続櫓外部の下見板張りや格子窓形式の突揚戸などと共に、築城当時の面影を見ることができます。

搦手(からめて)の罠

城正面の大手に対し、裏側を搦手といいます。松山城では本壇の西に位置する乾門が裏門にあたります。

搦手には全国でも珍しい望楼型二重櫓の野原櫓や、正木城から移築されたと伝わる城内最古の乾櫓など、重要な建造物も多く、搦手と大手を仕切る紫竹門も見逃せません。途中から向きが変わる狭間など、嘉明が仕掛けた巧妙な罠が細部に見受けられます。

大手と搦手、紫竹門の関係がわかる写真

本壇の石垣は天守再建時に修復されていますが、北側には古い石垣も残ります。本丸より一段高く積み上げられた本壇を搦手から見上げれば、北隅櫓、十軒廊下、南隅櫓と続く連立式天守の連なりを真横から見られ、圧巻です。

ここでは、重要文化財に指定されている搦手の建造物を抜粋して紹介します。

紫竹門(しちくもん)

重要文化財

本壇に接して紫竹門および続塀があります。

この門と東塀・西塀によって本丸の大手と搦手を大きく仕切ることにより、主に乾門方面からの進入に対し防衛する重要な構えです。

紫竹門から西に延びる続塀は、狭間の向きが途中から逆転しており、大手側・搦手側の両方から攻撃できる仕掛けになっています。

野原櫓(のはらやぐら)

重要文化財

本丸北側を防衛する重要な櫓である野原櫓は、日本で唯一現存する望楼型二重櫓で、乾櫓と共に城内最古の建造物の一つと考えられています。

建物の上に物見(望楼)を載せた古い形式で、天守の原型ともいわれています。

乾櫓(いぬいやぐら)

重要文化財

乾櫓は築城当初より現存する二重の隅櫓で、乾門・乾門東続櫓と共に正木城から移築されたと伝わります。