知って、探して、
見つけてみよう!
現存天守のほかにも見逃せないポイントがたくさん。松山城の魅力を深掘りするキーワードをご紹介します。
今もいるのか「金亀伝説」
松山城の別名は「金亀城」。昔は山麓の内堀が深い淵になっており、築城中に金色の亀が目撃されたという伝説が由来となっています。長寿の象徴とされる亀。金色の亀が棲んでいた松山城に登れば金運や健康運が上がるかも。
学問の神様を祀る「天神櫓」
本壇の鬼門の方向にあることから、その忌を避けるために久松松平氏の祖先神である天神(菅原道真)を祀ったことに由来します。もとは具足櫓(甲冑を収納する櫓)として使われていました。
難攻不落の「落ちない城」と「学問の神様」は合格祈願にもぴったりの隠れスポットです。
「山頂に井戸」の不思議
標高132mの本丸広場にある井戸。南北2つの峰を埋め立てて本丸の敷地を作った際、谷底にあった泉を囲むように石を積み上げて造られたと伝えられています。
井戸の直径は2m、深さは44.2m。当時の技術では掘ることができない深さといわれています。
誰が描いた?「侍の似顔絵」
松山城の修復中(2004~2006年)に発見された侍の似顔絵。天守再建時(1848~1854年)のものと推測され、江戸時代の大工さんが描いた落書きとされています。
小天守1階に展示中。
火除けのおまじない
憂事から建造物を守るため、伝統的な日本建築に使用されている装飾の数々。
城門や屋根などの装飾には建物を火災から守るためのおまじないが隠されています。
- 鯱
- 火災の時は口から水を吹き、建物を守るとされ火除けの守り神とされる。
- 懸魚
- 屋根の破風板につけ、棟木や桁の木口を隠す飾り。水に関係の深い魚の形を飾ったことが由来とされる。様々な形状があり、梅鉢懸魚・蕪懸魚などがある。
- 兎毛通
- 唐破風にとりつけられた彫刻を主体とした懸魚。松山城では天守正面の唐破風のほか玄関(天守中庭)でも見ることができる。
- 梅鉢懸魚
- 梅の花を図形化したもので、五角形または六角形をしている。松山城では天守の入母屋破風と千鳥破風で見ることができる。
- 猪の目
- 「♥」の形がイノシシの目のよう。猪が火災の時に「いの一番」に逃げることから火除け・魔除けとされる。
- 六葉樽の口
- 酒樽の口を栓で止めた状態。口を外すと水が出ることから火除けのおまじないとされる。
石垣の「刻印」
石垣に刻まれた「刻印」は石工集団を区別するための目印です。
石積みに携わった石工集団が責任を明確化するために刻んだものとされています。「卍」や「田」、「お団子」などユニークな刻印もあります。
子孫繁栄の願い
城門の大扉などに釘隠しとして取り付ける半球状に膨らんだ金具を乳鋲と言います。
女性の乳房に似ている事から子孫繁栄の願いが込められているという説もあります。
松山城が関わる昔話
毘沙門狸
かつて、松山城の東雲口登城道付近に位置する東雲神社の毘沙門堂には、化けるのが得意な狸が棲んでいました。
狸は妖怪の高坊主や提灯、汽車に化けては、人々を驚かせていました。このいたずら好きな狸を、人々は「毘沙門狸」と呼んでいました。
例えば、俳人の正岡子規と親しかった柳原極堂も、よく毘沙門狸に驚かされていて、こんな逸話が残されています。
若かった頃の極堂が、ある深夜、道後温泉から帰る際に近道し線路の上を歩いていたところ、遠くから「ポッポ・シュシュ」と蒸気機関の音とともに赤いヘッドライトが近づいてくるのを見て、慌てて線路を避けようとしたところ側溝に落ちてしまったのです。しかし考えてみると、その時間は既に終列車の時間を過ぎていた真夜中でした。
この話を松山在住中に聞いた夏目漱石は「枯野原汽車に化けたる狸あり」という句を読み、東京の正岡子規宛てに「なんだか松山とはおかしな國ですね 日々そんな気がしてなりません。」と添えたはがきを送りました。
長者ヶ平の由来
昔、城山の麓に貧乏な男が住んでいました。この男は金持ちになりたくて湯山横谷の毘沙門天に願かけをしました。毎日神社の境内に生えている「メダケ」という竹を一本ずつ持ち帰って庭に植えました。そして満願の日に夢を見ました。それは「私はお前の信ずる毘沙門天である。真心に感じ福を与えよう、しかし竹は全て返すように……」という夢でした。
その通りにメダケを全て神社に返すと、男はあっという間に金持ち(長者)になりました。そこで、山の中程に大きな屋敷を建てたところ、欲深い親戚や赤の他人までが押しかけてきて困ってしまいました。わずらわしくなり「元の貧乏に戻りたい」と毘沙門天に願いました。すると「一升ますを池で洗って、うつ伏せに伏せて底をたたけ」と教えてくれました。その通りにしたら、お金は一気に減り願いどおり貧乏に戻ってしまいました。
その屋敷があった今のロープウェイ山頂駅舎辺りを、長者ヶ平と呼ぶようになりました。
天神櫓の逸話
昔、松山城は松前町(正木城)にありました。ある日、このお城で加藤嘉明が変な夢を見て、そこで易学(占い)を学んだ家臣に占わせると「改城しろ」とのこと。
普通、幕府は移城の許可を出すとき第二候補地を許可するため、嘉明は天山、勝山、御幸寺山の中で、わざと勝山を第二候補にして許可をもらいました。
ところが、勝山に城を築きだしたとたん不思議なことが起こり始めました。お坊さんに祈祷してもらいましたが治まりません。京都の大僧正に相談すると「昔、桓武天皇が都を奈良から宇田町に移した時も同じことが起きた。占ってみたら、王城の丑寅の方角から鬼が来て邪魔をしている。都の名を改めて、鎮守を作って鬼門に埋めるといいということで、都を平安京に変え、八尺の土人形を甲冑・弓矢を持たせて東山に埋めて鎮守した」とのこと。
そこで嘉明は、丑寅の方角に多聞天を安置し、「勝山」の名前を「松山」に変えて、将軍塚を参考に、十分の一の大きさの土人形を作って山の東に埋めました。今でいう、天神櫓が建っているところです。
城山公園堀之内地区の白鳥
堀之内で白鳥の飼育を始めたのは、昭和42年に山口県宇部市より2羽を購入したことが始まりです。種類は「コブ白鳥」で、白鳥の中で一番大きく、体長は約1.6mです。餌やりは、1日2回に分けて、粒餌・鳥用固形飼料・菜っ葉などを混ぜて与えています。寿命は、お堀で飼育されているもので15年程度といわれています。