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松山城の紹介

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松山城は江戸時代以前に建造された天守を持つ城で、1602年から築城を開始し、約四半世紀かけて完成しました。市内中心部に位置し、天守の最上階からは松山平野や瀬戸内海などが見渡せます。二之丸から本丸にかけては 韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」があり、南側はほぼ完璧な状態で残っています。堀之内を含む城山公園全体が国の史跡になっているほか、21棟が重要文化財に指定されています。市街を一望できる夜景スポットや、桜の名所としても有名です。

名城としての松山城

松山城は、江戸時代までに建てられた、現存12天守の一つを有しています。平成18年に「日本100名城」、平成19年には道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。

また、日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあり、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、「日本さくら名所100選(平成2年)」や「日本の歴史公園100選(平成18年)」の指定も受けています。

日本100名城
美しい日本の歴史的風土100選
日本さくら名所100選
日本の歴史公園100選

松山城の全体

いざ、城郭ワールド

緑に包まれた松山の頂にそっと天守と石垣をのぞかせる松山城。でもそれはこの城のほんの一部。

山全体を活かした広大な縄張りには加藤嘉明が仕掛けた城郭ワールドが広がっています。

亀郭城秘図
「亀郭城秘図」文久4年(1864年)伊予史談会蔵

松山城は小高い山の頂に本丸を、麓に二之丸、三之丸を置く平山城です。賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人として知られる戦国武将・加藤嘉明によって築城が開始されました。

城攻め経験豊富な嘉明は、ここに実践に備えた難攻不落の城を築き上げます。山頂に本丸、南西麓に二之丸、三之丸を配し、水堀や土塁で囲んだのです。山全体を抱え込む広大な縄張りには幾重にも石垣を連ね、屈曲した進入路に城門や櫓を構え、本丸と二之丸をつなぐ登城道の南北には2本一対の「登り石垣」を築き、守りを固めています。

山頂の本丸が細くくびれているのは、もとは2峰に分かれていた谷の部分を埋め立てて造成した事によります。本丸の北、一段高い本壇には連立式の天守がそびえ、近世城郭の特徴を備えた重厚な城構えとなっています。

現在、登城道は4本あります。東山麓の東雲口にはロープウェイ・リフトも整備され、山頂駅の長者ヶ平から登城道に合流できます。まずは江戸時代の正規ルートであった黒門口登城道の大手から本丸を目指して、いざ、松山城へ!

①本丸

北に天守のある本壇、南に大手門(現在は石垣と礎石が残る)を構え、南北に長い独特の形状をしています。

②二之丸

本丸南西の山裾を標高約40mの位置で切りならし、石垣の上に築かれました。かつては藩邸機能があり、渡塀、櫓、城門といった武装建築を備えた要害堅固なものでした。

③三之丸

藩主の御殿や有力家臣の屋敷、政務の施設など、藩政の舞台として機能していました。現在は一部埋め立てられていますが、築城時にはほぼ全域が水堀で囲まれていました。

④登り石垣

築城時、二之丸から本丸へと通じる道は黒門口登城道のみでした。この登城道と二之丸は「登り石垣」によって厳重に守られ、石垣の上には渡塀や二重櫓が備えられていました。現在、北側の登り石垣はごく一部を残すのみですが、南側はほぼ完全な状態で残っており、総延長230m、国内最大の規模を誇ります。

北郭(きたのくるわ)、⑥東郭(ひがしのくるわ)

北と東の山麓には「北郭」と「東郭」が配されていることもわかります。(現在は石垣の一部や礎石などが残ります)

基本情報

名称 松山城
別名:勝山城、金亀城
所在地 愛媛県松山市丸之内
営業時間・
観覧料

エリアや4つの登城口によって時間や料金が異なります

認定・
指定

松山城登城記念符

歴代城主(加藤家・蒲生家・松平家・久松家)の家紋をあしらったデザインの登城記念符です。

  • 1枚 300円(税込)
  • 天守きっぷ売り場で販売

※ご購入はお一人様2枚までとします。
※転売目的のご購入はご遠慮ください。
※通信販売は行っておりません。

 

松山城オリジナル御城印帳

表紙に松山城歴代城主の家紋をデザインしたオリジナルの御城印帳です。

  • 1冊 2,800円(税込)
  • 天守きっぷ売り場で販売

※転売目的のご購入はご遠慮ください。
※通信販売は行っておりません。

ディープな松山城

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